父ステファン・シャウフェレが語る、日本(東京)とゴルフとザンダー、そしてデサントのこと

日本の皆さんこんにちは。ザンダー・シャウフェレ(Xander Schauffele)です。
「マスターズ」、「全米プロ」、「全米オープン」が終わり、2025年のメジャートーナメントも残すところ「全英オープン」だけになりました。ディフェンディングチャンピオンとして臨むリンクスでの闘いに向けて調整を重ねています。
今回のコラムは、父のステファンに登場してもらいました。かつて十種競技の陸上選手として五輪を目指した父は交通事故(相手の飲酒運転が原因だった)でその夢を断たれてから、長い間、コーチやキャディ、マネジャーとしてゴルファーの僕を厳しく支え、人生の師としてたくさんの教訓を授けてくれています。僕が生まれる前に東京・駒場にも住んでいた父のルーツをご紹介します。
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By ステファン・シャウフェレ(Stefan Schauffele)
■東京・駒場のゴルフレンジで過ごした時代
およそ30年以上前、私(ステファン・シャウフェレ)は日本に住んでいました。1991年の秋から1993年の夏、ちょうどザンダーが生まれる(93年10月25日)直前までのことです。台湾出身の妻、ピンイーが育ち、彼女の両親が今も住む東京という街は私にとってもかけがえのない土地なのです。
青年時代に明け暮れた陸上から離れた私は、当時、目黒区駒場にあったドライビングレンジによく通いました。打席から向こう側のネットまではたった60ydしかありませんでしたが、上達のためにはそれで十分だった。ボールをヘッドでクリーンに打つために、人工芝のマットを外して地面から打っていました。
チャンスがあれば友人や家族、仕事仲間と埼玉や茨城、千葉のゴルフ場でプレーしたのをよく覚えています。自宅を出るのは決まって朝4時頃。都内に在住の方ならば、首都圏のそういったゴルフ事情をよくご存じでしょう。
米国カリフォルニア州のサンディエゴで本格的に生活するようになってからも、日本との関係は途切れるどころか、むしろ密接になりました。2000年代初頭には東京に拠点を置く芸能事務所の少数株主だったこともあり、毎月のように来日し、全国を旅する生活が4年ほど続いたのです。
■ザンダーへのゴルフ指導
ザンダーと一緒にゴルフを楽しむようになったのは、彼が5歳になろうかという頃でした。そういえば、彼にも人工芝のマットから打つことを禁止していましたね。9歳になると、キャディバッグを担いで18ホールを回れるようになり、家族でサンディエゴの小さなゴルフ場、ベルナルドハイツカントリークラブ(現在のザ・ハイツカントリークラブ)のメンバーに入って本格的にプレーしました。

私の指導法は一般的なゴルフレッスンとは異なるものだったと言わざるを得ません。スイングの参考にしたのは陸上の投てき競技の動き。特にやり投げを行う際の動作の順序は野球のバッティングや、ゴルフスイングと共通するものが非常に多いのです。私は幼い頃の彼にはとにかく、ボールを強く打つことを伝えました。ボールをコントロールすることは二の次。まずは力いっぱいスイングさせることを目指したのです。
しかしながら、コーチングで大切なのは体の動きを教えること、クラブを正しく振れるようにすることだけではありません。ザンダーがゴルフで人並外れた才能を発揮するようになると、私は彼にトレーニングのみならず、人前での話し方や、自制心、自己分析の大切さを説くようになりました。将来、プロアスリートになることを夢見る少年にとっては、あらゆる瞬間が学びの時間だったのです。
■日本発祥ブランド「デサント」との縁
ザンダーがデサントゴルフのウェアを纏い、PGAツアーでプレーするようになって2年目。大きなサポートに感謝するとともに、私自身も縁を感じてやみません。
幼少期にアルプスに近い南ドイツのシュトゥットガルトで育った私は、冬休みと春休みの間、ダウンヒルスキーをして過ごしました。デサントは当時からウィンタースポーツの一流ブランドとして、妥協のない品質により欧州でも名を馳せていました。正直なところ…長い間、デサントをフランスのブランドだと思っていたのですが、日本発祥だと知って喜ばしく思ったのです。

夢にまで見たオリンピック(東京五輪)での金メダル、そしてメジャータイトルも勝ち取り、人生の伴侶にも恵まれたザンダー。私たち夫婦はここ数年で、ハワイへの移住を決めました。もちろん、その理由のひとつが日本に近いことなのです。
優れた職人技、食や温泉といった独自の文化をはじめ、日本人が大切にしてきた自制心やマナーといった神髄に心を打たれます。これからは一年に少なくとも4度は日本を訪れる生活になるでしょう。私たち家族にとってのルーツは永遠に大切なものなのです。