平田憲聖が“聖地”で手に入れる崇高な打感 最高峰の挑戦を支えるミズノプロ
賞金王を逃した悔しさをプラスに世界へ

2024年シーズンは年間4勝を挙げ、賞金王争いを演じた平田憲聖。24歳の新星は、期待の若手の一人から一躍、日本のトッププレーヤー入りを果たした。
さらなる躍進が期待される今季は、米下部のコーンフェリーツアーに主戦場を移し、世界最高峰PGAツアーへの昇格を目指している。「(昨年は)良いも悪いも、年間4勝できたり、賞金王になれなくて悔しかったり、いろいろ経験できたことが今年に繋がっています。課題をもらえたことがプラスなので、そこをクリアし、より強くなりたい。今はPGAに行くことが目標で、そこを達成したい」
新たな野望に向けて動き出した平田が、米国からの一時帰国中に足を運んだのが、ミズノの養老工場。3年ぶりに訪れたクラブ作りの“聖地”で、世界で戦うための準備を行った。
レジェンドたちのクラブを削るマイスター

岐阜県養老町は人口2万6000人ほどの小さな町だが、その名はゴルファーに知れ渡っている。ミズノの養老工場からは名器と呼ばれる数々のゴルフクラブが生み出され、さらにツアープロの要求に応えるさまざまな調整もここで行われる。
同社の“マイスター”野村武志(敬称略、以下同)の話に耳を傾けると、何人ものレジェンドゴルファーが登場する。「私の師匠は中嶋常幸プロのクラブを担当している方でした」、「(当時世界ランク1位に君臨していた)ニック・ファルドを担当して90年代はヨーロッパを回っていました」、「(日米で賞金女王となった)岡本綾子さん、(7度の賞金女王を獲得した)ト阿玉さんら、女子のトップ選手が揃って契約選手だったので勉強になりました」
彼ら、彼女らの活躍を支えてきたのが、養老工場であり、ツアープロを担当する野村らクラフトマンである。
養老工場で働き始めて40年が経った現在、マイスターの野村が担当している選手の一人が平田だ。「中学生のころから、父親やコーチに連れられてここに来ていました。お尻に中学校の名前が入ったズボンをはいていたのが印象に残っています」
手厚いサポートにスタッフの温かさが伝わる

その後、順調にトップアマまで成長した平田が初めて一人で養老工場に来たのは20歳のとき。自ら車を運転してきたというので、「とにかく気を付けて帰れよと、親のような気持ちでした」。まだ数年前の話だが、野村は懐かしそうに話す。
一方の平田も初めて養老の地を訪れた時のことを覚えている。「ここに来るのは夢だったので、すごくうれしかったです。いろいろな選手のサインや写真があって、プロもここに来るんだと思うと気持ちが舞い上がりました」
クラフトマンには養老工場でのクラブ調整はもちろんのこと、ツアー会場でも確認してもらっている。「ギアの会話はもちろん、『最近どう?』とか日常の会話も普通にするので、いろいろサポートいただいています。そういう中でミズノのスタッフの方たちの温かさを感じています」(平田)